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無音

昨日は娘とふたりで、ひさしぶりにクラシックコンサートに行ってきた。すばらしかった。

ドイツではコンサートといえば教会が会場になることが多く、いつも神聖な気分になる。今回もそうだった。音楽の洗礼を受けて心がいつのまにか洗われ、軽くなっていった感じ。

クラシックの聖地にいて、音楽の素養がないのは残念であるが、ただ楽しむためには無知な分、気楽であるのも事実である。聴いた音がそのまま、直接体にしみこんでくる。そしてその時々、体の奥で眠っている様々な思いが、音やメロディーに反応して飛び出してきて、そのひっぱり張り出された思いは、音楽のなかに溶けていくのだ。

音と音、曲と曲との間の静寂は心地よい緊張感をもたらしてくれるし、気持ちが一瞬無になる。こんなに「静か」な時を体験できるのは、日々の暮らしではなかなかないもの。神聖な音と音の間にある時間は貴重な瞑想時間である。

娘が習っているバイオリンメソッドの協会が発刊している冊子を先日いただいた。そこにこんな記事があった。心に残ったので記したい。

「『音のない音楽』

音楽の表現の中で、最高のデリカシーと迫力を持つものは、音の空白の場において表される。

音の空白という事は、音のないところのことである。

音楽は音と、無音との二つから成り立っている。だから、無音の分野と音との分野のそれぞれのあり方の優劣によって、音楽の優劣が成り立ってゆく。

無音の場所のむずかしさは、音の分野のむずかしさと変わりはない。

そして実際に、優れた演奏家達は、音の世界の名人であるとともに、無音の世界の名人であって、音だけの分野の名人というものは存在しないのである。

思うこと、感じること、考えることは無音の世界。為すこと、言うことが音楽でいう音の音の出ている世界。思うこと、考えること、感じること、反省することのない人に名人はいない。

音楽において、音のないところでの感覚の優劣が音楽的能力の高さのバロメーターになると同じように、人間はその思うこと、考えること、感じることの優劣によって、人間としての高さ、低さがつくられてゆく。

優れた人々の演奏を聴いて、思い上がった人々の中には、多く、まずその欠点を並べ立てて、自分の期待に外れた点を強調する。そうしたことが極めて多く行われている。

優れた人々の優れたところがわからない人々におこる現象だと考えてもいいだろう。

他人の欠点ばかりが目につく自分に気がついたときには、自分の目が低いものばかりに働く能力をもっていることについて悲しむ人になりたいものである。

他人の美しい心や感覚や愛情をひしひしを感じることの出来る能力を持つことは、幸福な人間になることへの近道だし、他人の欠点ばかりとらえる才能に発達してゆく人々は、高いところを見る能力を失ってゆく不幸な人々であろう。

優れた人々の演奏を聴いて、その優れた高さがわかる人になることのむずかしさを知る人々は、他人を称える人々の人間の高さを知ることもできよう。

音のない音楽の中に人の力を知り、言葉のない人間の感覚の交流の中に相手の人間の価値は示されてゆく。(以下省略) 鈴木鎮一」

考えさせられる言葉である。

※写真は昨日のコンサート会場の教会併設のカフェ。簡単なものしか置いてなくて、お世辞にもおいしいコーヒーとケーキがあるとはいえないが、その空間の贅沢なことといったら、そんな味の話しなどどうでもよくなるくらい。カフェはコーヒーを飲むための場所ではなくて、心地よく時間を過ごすための場所であるのだから。そんなことをしみじみ感じたコンサートの休憩時間。

Heilig-Kreuz-Kirche
Zossener Strasse 65
10961 Berlin
(U) Hallesches Tor

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  • 12.Sep.2011
  • by aya
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