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ケ・セラ・セラ

週末は娘のお友達が泊まりにきていた。思い存分走り回って遊んで、静かに美女と野獣のDVDを並んでみて・・・見ているだけでこちらまで幸せ気分になる、楽しそうなこどもたち。翌朝はマイナス一度という寒さだったので、公園に連れて行く予定を取りやめて、急遽大きな屋内ジャングルジムなどのあるキッズカフェに連れて行くことにした。

その出がけに、小さな本棚、しかしたくさんの世界が詰まった大事な本棚から、何とはなしに目についてかばんに滑り込ませたのが『一億百万光年先に住むウサギ』(著・那須田淳/理論社)。まとまった時間がなかなかとれず、小説といった類のものが読めなくなって久しいが、この本の甘酸っぱい読後感と、静かな海のような余韻は覚えていた。

YA(=ヤングアダルト)とよばれるティーンエイジャー向きの小説なのだが、彼らの親をはじめ、彼らを取り巻くオトナたちの諸事情がしっかり描かれている。この場合の「しっかり」は、こどもの視点で、ということなので、この小説の原動力となっているある疑問に対する答えは、結局ラストでも見つからないまま終わる。それは、種明かしを楽しみに見ている手品ショーの最後に、種明かしがないようなものなのだが、この小説では、手品の進行自体が丁寧に描かれていて楽めるので、最後に種明かしなど必要ない。そもそも、この世の中、「種」がわからないことばかりだし、子供の世界ならなおさらである。オトナの事情に翻弄されつつも、種=答えを探し出す旅を通じて、答えを得られずとも、つまり答えに頼らないで精神的に自立していく様がさわやかに描かれている。

小説や映画といえば、はっきりとした「種明かし」や、わかりやすいハッピーエンドで終わるものがずっと好きだった。それが、この小説ではそうでないところに魅力を感じている。これは筆の巧みさなのか、はたまた自分の年齢故だろうか。それとも、反対で心がYAに戻りつつあるのだろうか。

こどもの人生は目に見えるもの、理解できるものが基本だ。それが次第に、想像力、察する力を得るにつれ、目に見えないもの、言葉で表現されないことの存在を感じるようになる。そしてやがて、物事の真価は外見上の大きさや、見えるか見えないか、さわれるか、さわれないかでは計ることができないと知るのだ。

最後まで真実がベールにつつまれたままで終わるこの小説は、人生そのものでもある。人生には形がなく、明確な答えもなければ、正しい道もない。その時々での一喜一憂はあっても、その思いはどれも一生続くものではないし、今正しいと思っていることが、ちょっと先にはそうではなかったりする。だから、大切なのは正しいか正しくないかよりも、正しいと自分が思うことを信じることだ。それができるようになることが、大人になっていくということだと思う。

ただ、人生に疑問を持つことは必要である。あるいは夢や目標といったものも、人生を楽しくするエッセンスだ。疑問に対する答えが見つかるかどうか、あるいは夢や目標が達成できるかどうかにかかわらず、それらは大切な人生の指針となるし、人を驚くほどの引力で動かし、道を作っていくから。時には奇跡的ともいえる導きで得られる経験や思い、人の大切さやありがたさが、時には思わぬ障害までもが、血となり、肉となり、人の人生を形作っていくはずだ。

キッズカフェのジャングルジムから、時おり聞こえてくる「ママあ」とよぶ大声にわれに返り、時おり本から目を離し、手を振る。のどが渇いたといって、ジュースを頼む。アイスが食べたいとはしゃぐこどもたちに、つきあう。なかなか落ち着いては読めなかったが、ふとめくると、最終章にでてくる歌の文句が目に焼きついた。

「... Now I have children of my own.
They ask their mother, "What will I be?
Will I be handsome? Will I be rich"
I tell them tenderly:
Que sera, sera, Whatever will be, will be.
The future`s not ours to see.
Que sera, sera, What will be, will be...

そして今、私には子どもたちがいる。
彼らは私にこう尋ねるの。
大きくなったら何になれるの?
ハンサムになれる? お金持ちになれるの?
私は子どもたちに優しく言うわ。
ケセラセラ なるようになるわ。
先のことなどだれにもわからない。
ケセラセラ なるようになるのよ」

本のサインを見ると、これを読んだのは2008年3月。ちょうどあれから3年がたつ。気がつくと、当初はchildだったのが、今はchildrenになっている。このタイミングでこの小説をまた手に取り、このページを開いたことは、偶然ではないような気がして、あたたかい気持ちになった。

人生における手品では、種明かしがないどころか、時には箱から「白い鳩」がでてこないことだってある。そんなときには泣くかわりに、「ケ・セラ・セラ」と歌おう。いつでもそんなすてきなオトナであれたら。


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  • 27.Mar.2011
  • by aya
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