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時には「愛」について、なんて。

「愛」って素敵な言葉だ。

一般的には「恋愛」がイメージされる言葉だろう。ドラマでもよくテーマになるし、歌詞にも映画にも文学にも頻繁に使われる言葉である。

でも、この年齢になると、「愛」という言葉は、一筋縄ではいかない。無限の多面性を持ってくる。宗教的な響きさえも持ちあわせてくる。恋愛をさすだけでもなくなってきて、男女をあまり意識しなくなった夫婦とか、友達とか、あるいは年老いた親との間にあるものであったりする。語弊を恐れずにいうと、動物的な本能的なものじゃなくって、生理的欲求という仲介をなくした、人間的な愛について考えさせられる出来事に遭遇するようになる。だから、愛とひとことでいっても、ただ単に情熱的で美しいだけのものではなくなってくる。

第一子を授かったとき、イタリア人の陽気な産婆さんから、その人柄に似合わず神妙に発せられた言葉をふと思い出す。

「愛ってね、最初からそこにあるもんじゃない。自分自身の力と意思で、育んでいくものよ」

それまで仕事ばかりしてきて、こどもを生み育てることにどこか実感を持てないまま、出産直前にいた時だった。自分では気がつかないでいた素の心に染みこんできた言葉だ。それからほんのりとした幸せに包まれつつ、仕事と、こどもと、家族と生きてきた。まわりは「今が一番かわいい盛りね。そのうち憎たらしくなるけどね」などと3歳のころの娘の親に向かって語りかけてくれたけど、私にとってはそれはあてはまらず、一日多く一緒にいる分、一日多くこどをも理解できるようになり、日がたつほどに愛が深まっていく感じがする。他人から見ても、こどものいい分からしても母親としての愛情はまだまだ足りないと実感するが、これから先の深まりも考慮に入れて、あせらずにいこうと思っている。

小さなこどもとの間の愛とは違って、でも、他人や世間や、至近距離の、あるいはちょっと離れたところに住む大人との間にあるものは、そう簡単にはいかない。でも、どんな形の、どんなに尖った愛を向けられても、跳ね返さないで、できればやわらかい愛というクッションで吸収したいと思う。それが願いだ。それは、正直言って到底無理な相談ともいえる理想なのだが、そう思って努力したい。人様より自分勝手に生きてきた、生きている、と思える自分が唯一できる、私を愛してくれている全ての人に、私ができることだと思うから。自分のためだけに生きているわけでない、家族のためや、遠くに住む誰かれのためにできること、すべきことを、ぜんぜん足りなくとも、自分なりにがんばっているのだと思っていても、実は案外そうじゃないのかもしれない。そう考えると、多少なりとも心が救われる。私は無宗教だが、ひとはみな、罪人であり、それにどこか気づいていて、理由を見つけて悔いることでこそ、前進できるのかもしれない。

そんなことをぼんやり思う日々、偶然に耳に入ってきたベットミドラーの『THE ROSE』。
とてつもなく長かった冬があけて、ベルリンにもやっと春の陽気が感じられるこのごろ。来週は名残雪が降るというけれど、毎朝の鳥のさえずりは確実に春を呼びよせている。今、そしてそんな季節に聴いたこの曲(Youtubeにもたくさんアップされているので、ぜひおすすめしたい)。以下に、ネットにいくつかあがっている歌詞を参考にさせてもらい、自分流にかなり意訳したものを最後に。

『The Rose』Bette Midler

人はいう 愛はにごった川の流れのようだと
弱く傷つきやすい人を飲み込んでしまうから
人はいう 愛は冷たい刃のようだと
人の心を容赦なく切りつけるから
人はいう 愛は飢えのようだと
どれだけ求めても 満ち足りることのない
私はいいたい 愛は花だと
そして、あなたも唯一のひとつの種

傷つくことを恐れる心では
楽しく舞うことなどできない
夢から覚めることを恐れていては
チャンスをつかむことなどできない
奪われることを恐れていては
与えることを学ぶことなどできない
死を恐れてばかりいる臆病な心では
真に生きることなど決して学べやしない

ひとりで寂しく過ごす長い夜
目の前の道が長すぎると感じるとき
誰もが思うにちがいない
愛というものは 
運のよい、強い人だけに与えられるものにちがいないと

でも そんなときには 思い出してほしい
厳しい冬 冷たい雪の下で寒さにじっと耐える種があることを
その種こそが あたたかな太陽の恵みをいっぱいうけて
やがて春には 美しいバラになれるのだということを

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