berlin cafe and more

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Adler

縁あって関西の某ラジオ番組に生出演した今年の夏。

ベルリンに住んでいるということを打ち合わせどおり話すと、パーソナリティーがすかさず、「ベルリンというと、旧東ドイツということですよねえ」

答えはイエスでもノーでもある。

「自宅は旧西ドイツで、オフィスは旧東ドイツにあるんです」。毎日、旧西ドイツから、旧東ドイツに一時間かけて通勤しているのである。といっても同じベルリン市内である。

オフィスがある旧東ドイツの地域は「気まま・カフェ」でもたくさん紹介しているおしゃれなカフェが軒を連ねる「Prenzlauerberg」。ここはベルリンの若い世代やアーティストに人気のエリアでモダンアートのギャラリーも多く、旧西の閑静な住宅街に負けず劣らず家賃が高い。

仕事で毎日密に顔をつき合わせている同僚の一人は、旧東時代共産圏のエリート家庭で生まれ育った50代の女性。歴史に翻弄され、時代が変わって、価値観が覆されて、生活が激変して、今がある人のひとりである。その笑顔とそのバイタリティーはひまわりを思わすかがやきを放ち、まじめだが独特のウィットを持っている。

仕事の合間におしゃべりをたのしみ、個人的なことを打ち明けあったり、まれに険悪になったりもしながらも、楽しく一緒に働いている情の深い世話好きな、つまり私たちとさして変わらない一人の女性である。仕事はサービス業の一端を担っている部分もあるのだが、彼女の仕事振りは日本のマーケットにもとても評判が良い。「お客様は神様」という言葉が存在する(外国人にとっては)不思議の国日本、消費者過保護のその国からきた自身すら学ぶことが多いサービス精神旺盛な姉御肌のひと。生まれ持った、または育くんできた人柄、個人の性格というものは、どんな社会的環境をも生き抜く力があるようだ。

このようなことは、ドイツに来る前、いや正直言って2年前にベルリンに移り住むまでは思いもつかない、想像も出来ないことだった。勉強ぎらいであることも多少は関係しているかもしれないが、どれだけ机に向かって歴史を学んでも、この複雑な歩みを持ったベルリンに関しては実際に目で見て当事者から話を聞かないと、見えてこない部分が多いような気がする。

第二次大戦後、戦勝国の都合により、ドイツは米英仏の自由主義政権とソ連の共産主義政権により西と東に分断されたわけだが、これは身近な例として、韓国と北朝鮮の関係が上げられるだろう。しかし、特筆すべきは、ドイツのほうはそれに加えて、ドイツの首都であったベルリン市が、国と同様に西陣営と東陣営に分割統治されたことである。ベルリンは西ドイツに隣接していなかったので、西陣営の統括する西ベルリンは、ソ連の共産主義圏に地理的に囲まれる形になった。

これはどういうことか。

日本が愛知県あたりで東日本と西日本に真っ二つに分けられたと仮定すると、それぞれが共産主義国と自由主義国の統治下に置かれた上に、地理的に共産主義圏に位置する東京も分割されて、その西半分が自由主義国に統治されるという事態である。ここでの西東京は目玉焼きの黄身にたとえられよう。

その後のドイツの歴史になぞらえると話のつづきはこうだ。

お上の東西間の冷戦が緊迫すると、卵の白身にあたる共産主義政権がその立地を利用し、黄身の西東京への輸送道路を全面封鎖、生活物資の輸送を完全にストップさせるという事件がおこった。それに負けじと西陣営は、唯一合意の下にあった空路を使い、24時間体制で3分おきに大型輸送機を飛ばして燃料や生活物資を東京上空から西東京に降らして生命線を確保して乗り切った。しかし冷戦はさらに深刻化し、労働力の流出を恐れた東陣営は一夜にして西東京のまわりを有刺鉄線で囲んでしまう。これが最初の「東京の壁」。2日後にそれはコンクリートの頑強な壁に取って代えられはじめ、全長150キロメートルにも及んだ。

壁とはいっても、正確に言うとそれはコンクリートのついたて二つにはさまれた帯状の境界線警備地帯。帯の幅は数十メートルにおよび、東当局の警報電線が張り巡らされ、259頭の猛犬が放たれていた。たとえ一つの壁を越えても、もう一つの壁を乗り越えられる保証はないに等しいような厳重な警備だったのだ。そんなことを十分承知しながらも、この壁を乗り越え亡命しようとした人は数知れず、192人が命を落としたという。

しかし、亡命を試み捕らえられた人の数は亡くなった人の比ではない。なぜなら、亡命の因果関係を調査するために、東当局はなるべく処刑を避けたからであった。舞台を東京に移すと、多少はリアリティーを持って理解できるのではないだろうか。

話はベルリンにもどり、1989年のある秋の日。

あんなにも頑強であったベルリンの壁は、30年もたたないうちにあっけなく崩壊した。世界中が歓喜に満ちたあの瞬間からかれこれ16年の時が流れている。

今は一部が記念碑として保存されているだけで、道路を注意深く眺めなければ見落としてしまいそうな跡が残されているだけだ。壁をその国に、その市に有したことのない世界中の観光客は、その壁のかけらをひとめ見ようと観光バスで押し寄せては記念撮影をし、旧西と旧東の面影を人や建物に探し、認めては喜んでいる。地元の人間はというと、旧西、旧東、という言葉はもはやドイツ人よりも外国人のほうが使う頻度が高くなっているくらいである。事実、その違いをはっきりさせたい人と同じくらい、もう一緒なのだからどうでもいいではないかいいたげなドイツ人も多い。

しかし、頑強な壁が28年間そびえ立っていたという事実とそれが残したものは大きい。

ベルリン市民は西と東と別々の方向から、恐ろしい様相でそびえたつ壁を眺め、時にはそれにまつわる悲劇を知り暮らしてきたのである。厚い壁の隔たりが、ついこの間まで同じ国の、同じ市の同胞間に「自分たちとは違う」「あちらの世界」という思いを大きくし、心の壁をも作っていったとしても不思議はない。実際のところ、壁の向こうとこちらでは全く違う政治理念の下、生活上の価値観も、暮らしぶりも全く違うものになっていったのだ。

壁が崩壊しても人の心の中にはまだ壁が残っているとはよくいわれていることだが、さて、もしどこにも壁がつくられていなかったなら、またはもし西と東に分けられていなかったなら、人々の心の中に壁というものは全く存在しえなかっただろうか。

ベルリンに限ってのことではない。心の中にある壁は、究極に言えばどこにいっても、誰の心のなかにも多少なりともあるはずのものである。それを「色眼鏡」「差別」と言い換えることも出来るだろう。ベルリンでは、物理的にあった壁が取り払われた今、そんな心の壁をつくるか作らないかは一人一人の選択に、意思にゆだねられている。なぜなら、皮肉なことにも目に見える壁を皆で崩壊した今、誰もが気付いたことは、人と人の間の壁というものはなくなることはないのかもしれない、という恐れだったのだから。

自分にも相手にも、誰にも大なり小なり存在する心の壁。その事実を受け止めながら、人と距離を置いて、言葉を変えて言えば相手を、その違いを尊重して、なんとかこうとか折り合いをつけながら雑居している。ベルリンは私の目にはそう映る。信仰においても、趣味においても、ファッションも、何もかも、人は人自分は自分、ぜったいに干渉しない。

それは大人ともいえるが、無関心とも表現されるし相当冷たく感じられるかもしれない。しかし、お互いの「自分」を尊重し合い共存するためには絶対に必要な距離なのである。究極的に言えば、その距離を保てないからこそ、相手をブロックするコンクリートの壁が必要になってくるのだ。ベルリンの壁の歴史が私にそっと語りかけてくれたこと、それは人と適度な距離を保つことの大切さであった。 しかし、きっと明日はまた別の、何か大切なことを教えてくれるに違いない。


「カフェ・アドラー」は、チェックポイントチャーリーという名の米軍が管理する国境検問所のすぐ横にあった。今は検問所を再現した観光スポットの横にそのままの姿を残している。何の変哲もない、古いカフェである。しかし、壁のすぐそばで数々のドラマチックな歴史を感じてきたに違いない。

東から西へ壁を越えようとして殺された人の嘆き、命がけで壁を突破し感激した人の鼓動、愛する人を失った人の悲しみ、最愛の人に再会できた人の歓喜、壁の向こうで監視していた軍人の心の葛藤、そんなものすべてを真近で見つめてきたカフェである。真夜中に壁の上空を飛び越えてきた大きな気球の熱も感じていたかもしれない。

真近に迫っていた壁がなくなり見晴らしの良くなったカフェは、現在世界中から訪れる観光客相手に忙しい平穏な毎日である。かつては連合軍と外国人のみが通過することを許された国境はレプリカになり、国籍問わずだれでも、360度どこからでも眺め、どこへでも通り過ぎることが出来る。

かつて国境警備員がカフェをのんだかもしれないその同じ場所に、今は観光客用の偽アメリカ軍人と偽ロシア軍人が交代でカフェを飲みに来ている。(Dec.2005)

  • 03.Apr.2009
  • by aya