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Lass uns Freunde bleiben

「ずっと友達でいよう」という名のカフェ。 

ただし、夫いわく、「お友達のままでいましょう(恋人へと進まずに)、かもしれないよ」とのことである。確かに、そういわれてみれば、どちらにも取れる。実際どちらにとるかは、人それぞれの過去の思い出によるのであろう。

いずれにしても、こういう類のことばとは、長年、無縁である。最近よく似たことばを聞いたと思ったが、それは3歳半を過ぎた娘が保育園でともだちとの会話を再現してくれたときだった。  

「友達」とは、友達以外のなにものでもないのだろうが、なんとなく年甲斐もないことばのような気がするのは、照れというよりもこういったことばから疎遠になってしまったからだと思う。遠い過去にはたくさんいたが、今は数少ない「友達」。それは、ことばの重みが年とともに増してきたからにほかならない。

その昔は、クラスメートや部活の仲間がみんな「友達」だった。しかし、今は、たとえば会社や学校や行動範囲、生活範囲が同じというだけで、「友達」ができることはないし、逆にぜんぜん違うところに「友達」がいたりする。

ずっと昔は、友達や、恋人との関係の親密さは、物理的な距離の近さに多くを、あるいはそのほとんどを、担っているような錯覚をしていたが、今は違うということを知っている。

外国に生活するようになって、全ての、といっても数少ないのではあるが、友達と離れていても、その友情を忘れることはないし、忘れ去られているという気もゆめゆめしない。離れているからこそ、なおさらしっかり覚えている。もしかすると、自分が信じている友達や、その友達との友情というものは幻想で、自分の中でただ美化しているものに過ぎないのかもしれない。

果たして、美化することは、そんなに悪いことなのかとも思う。ひとには、どんないい人にも悪いところがあり、どんな悪い人にも美徳はあるものだ。であれば、美化できる人と人との間にあるものが、友情だったり、愛情だったりするともいえるのではないだろうか。友達や恋人という関係に必要なのは、相手のいいところを見つけてそれをいつくしみ、手間を惜しまずに相手に伝え合うことなのだから。

このごろ、この10年ほどは新しい友達とはなかなか縁がない。別にたくさんの友達が欲しいと思っているわけではないのだけれど、たぶん、新しい友達ができるほどの、素直だったであろう、過去の自分がなつかしいだけなのかもしれない。思考や、趣味や、生活環境、行動範囲、、、少しでも自分と同じような人は、どこをさがしてもいない、と自分を省みて断定するようになってきたが、そもそも、同じような人を求めてしまうのが間違っている。

似ていたって、それは勝手な判断で、所詮つきつめてしまえば、この世には一人として同じ人間はいないのだ。そしてその誰もが、どんな立派な人であろうがなかろうが、自分本位に生きており、自分もそのうちの一人である。

そんな風に考えるようになって、かえって気が楽になった。そして、何人か、縁があって知り合った人たちと、新しい「友達」づきあいが始まったりしているのだが、あきれるほど違うのである、思考も、趣味も、生活も、何もかもが。それでも、基本的には違っても、話の内容によってものすごく共感できたり、尊敬できる部分があったり、ひと時、感動することがある。いい意味での刺激を受けることも決して少なくない。

かつての友達の中には、行動をともにし、同じ思考をしていると思っていることで友達だった人もいたかもしれないが、今は違う。違う人の、違う人生の中に、わずかに同じものを見つけた時に感動したり、絆のようなものを見出したりしている。

年をとるごとに「友達」の幅が広がり、意味も変わってきた。一方で、「本当の友達」とは年々それぞれの生活圏に重なりがなくなっていき、物理的に遠くに離れていくばかり。会話といえば、心の中でか、書き言葉のなかだけである。 

だが不思議なことに、別々の場所で、それぞれに年を重ねるごとに想いがよく通じるようになり、その存在はますます身近なものに感じられてくる。(July 2007)


 

  • 03.Apr.2009
  • by aya